2017年06月27日

僕らの草刈りは、僕らのアートなのだ(前篇)

そろそろ夏です。あぜ草刈りの季節です。あぜ草刈り。田んぼのあぜの草を刈る。文字通りの意味なので、農家じゃない方もイメージはわきますよね。ようするに、あぜに生えている邪魔な草を草刈り機でザーンと刈り倒していく作業です。このご時世、あぜの草は除草剤でやっつけるのが普通で、わざわざ草刈り機を振り回すなんてのは少数派です。が、「道具は変われども(鎌から草刈り機に)、日本人は営々とあぜの草を刈ってきたのだ」などと無理やりノスタルジックな気分に浸かりつつ、軽快なエンジン音を響かせてる今日この頃なわけです。どれ、じゃあ昔はどうだったのか、われらが石川県が誇る農業の聖典、「耕家春秋」(江戸時代の農書です)をよんで当時の草刈り事情をかえりみようと思ったんですが・・・なんと

あぜ草刈りなどしていない。

と、いきなりショッキングな事実に直面してしまいました。いや、刈らないというわけではないんですが、今の草刈りとはちょっと意味合いが違うんです。本書の第一巻「年間の農事暦」を見ますと、3月の下旬に、あぜ塗りをした後、ヒエや大豆をあぜに播くと書いてあります。はん?播くだと?ここでいうヒエは、雑草のイヌビエではなくて、食べるヒエです。このヒエや大豆はとうぜん刈り取ることになりますが、それはまさに食べ物を収穫する行為じゃあないですか。また、7月上旬には、あぜの草を刈り馬屋にいれると。これは、肥料となる厩肥をつくるための材料として草を刈っているということです。ようするにですよ、草が邪魔だから刈っているのではなく、それが必要だから刈っているのです。

ちょっと話がそれますが、江戸末期に日本へやってきた外国人たちの紀行文に、日本の農村が、すっごくきれいで、あぜに草なんかないぞとエラく感激しているような文章があったような気がします。あれは誰の本だったかなあ。勘違いかもしれません。ともあれ、それを読んで、昔の日本人はやたら勤勉だったんだくらいに思ってましたが、よくよく考えてみれば、見た目だけのためにそんなことできませんよね。食器洗浄機もなければ電子レンジもない時代です(うちにもないけどね)。外国人のために農村風景をビューティフルかつワンダフルにしているひまなんてあるはずないです。むしろ、結果としてそうなっていたという方が納得がいきます。そういえば、うちの母が申しておりましたが、子供のころ、裏山の林床は、木の枝も落ち葉もなくきれいになっていたそうです。当時はかまどで煮炊きするので、みんなが燃料として枝や葉っぱを採集してしまうからです。

なんだろ、よくわからないけど、ちょっと負けた感があります。いやだいぶね。ここは強気に、「今は豊かだから、あぜで豆なんか作らないのさ」とふんぞりかえってもいいんですが、「じゃあ、なんで刈るんだYou?」という疑問にさいなまれます。「邪魔だから」って理由は、到底、「必要だから」という理由にかなわないような気がします。しかも、時間と体力とガソリンをふんだんに使ってさ、「邪魔だから」ってあなた。

なぜ、あぜを刈るのか、改めて、その現代的意義を述べよと問われれば、斑点米カメムシ云々の話もありますが、一番のポイントは、「草が生えてると世間体が悪いから」です。結局のところ。山奥で谷ひとつ、一人で百姓しているならともかく、集落でいくつもの農家がとなりあわせで田んぼをしているとなると、あぜをあんまり荒らしておいたら苦情がでますし、となりがそういう人なら逆に苦情をいってやりたくもなるでしょう。私はどちらかというと、ずぼらな方(だいぶ)なので、ヤブこぎするほどじゃなければ、「ああ草が生えてるね。冬には枯れるよ。」くらいに思っちゃうんですが。またまた、話がそれますが、昔、栃木県の借家に住んでいたとき、小さな裏庭があったんです。放っておくと夏にカラスウリが夕方に咲いて、オオスカシバ(きれいですが、蛾です)がぶんぶんとやってきて、たいそう楽しかったのです。でもある日仕事から帰ってくると庭がきれいさっぱり。大家さんが「刈っといたから〜」と陽気に告げてきます。「ありがとうございますう」と応えながら、チっと思っていたのですが、やっぱり人の住むところですから、大家さんの方が真っ当ですよね。

学校の隅っこで薪を担いでいた、二宮金次郎さんもこうおっしゃっています。人の道というのは、自然の道とは違うのじゃ。自然のままがいいなんて言ってなんでも放置しておいたら、人の生活は成り立たないぞと。人には人の生活空間というものがありますから、その中ではいろいろちゃんとしないと、人らしい生活を送ることはできません。たとえば、「いやあ、生き物は大事だから家の中の生物多様性を高めようよ」なんて口にしたら、虫どもと一緒に追い出されること請け合いです。田んぼだって、家の中ほどとは言いませんが、それなりにちゃんとしておかないと人の道を外れるというわけです。

さて、金次郎先生のおかげで、ただ邪魔な草を刈るっていうことに哲学的価値を与えていただいたんですが、なんちゅーか、こー、結局見栄えかよっていうモヤモヤが晴れません。人は見た目が9割なんていいますが、実際そうなんでしょうが、やっぱり、中身みたいなものが伴わないとっていうのがあるでしょ?例えていうなら、飾るだけの器と使うための器の違いといいますか。私としては、使って美しい器にこそ価値があると考えてしまうんですよね。それに、江戸時代の人が今の草刈をみたら、「おまえら、ただ刈ってんのか?」とバカにされるような気がします。私としては、「いやいや、おっちゃん、ただ刈ってるんじゃないよ、今の畔には、いろんな機能があるんだ、そのために刈ってるんだよと。」と自信をもっていえるといいなと思っているのです。というわけで続きは後篇で。

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2017年04月14日

種子法やめるってさ(後篇)

現内閣にはクールジャパン戦略担当大臣というポストがあるんですね(兼任ですが)。前から思ってたんですが、このクールジャパンというのが、どうも決まりが悪いというかおもはゆいというか。そりゃあね、なじみのものが海外でも評価されるのは、もちろんうれしいことですよ。だけど、日本人の口からその言葉が出てとたんに、なんだか酸っぱいものがこみあげてみます。おっと、主要農産物種子法の話でした。はてさて、13日に参議院で廃案が可決されました。それにしても、農家のみなさんも消費者のみなさんも、本件について問題にすらしてもいないようだし、しょうがないんじゃない?みたいなご様子です。大事なことなんだけど。こうなると、クールというより、コールド(冷めきった)ジャパンなんじゃないでしょうか。なーんてね。さて、前編では、主要農作物種子法とは何か、またその廃止の理由なるものについて説明しました。そして最後に、種子法の問題点を述べたいなんて言ってしまいました。だまって終わればよかったと後悔しつつ、後篇でございます。

唐突ですが、コメといったらコシヒカリですよね(不承知だという方も、そういうことにしてください)。コシヒカリは、日本の水田の3分の1で作付され、山形県以南のほぼすべての府県で奨励品種です。コシヒカリは、粘りが強くて日本人好み、1969年に始まった自主流通米制度を背景にどんどんその作付を増やし、今だに、しぶとく作付面積一位を誇っています。自主流通米制度というのは、それまで配給制だったコメの一部を自分で売っていいよという制度で、この制度によって初めて消費者が品種でコメを選べるようになったのでした。つまり、

Aさん:お、コシヒカリっておいしいな。これからも買ってみよう。
Bさん:じゃあ、コシヒカリを植えよう。

という流れです。でもね、コメの味なんてものは、正直そんなにバリエーションがないので、コシヒカリじゃなきゃなりませんというほどの舌を持っている人は限られていて、美味しい「らしい」からという理由ではないかとも思われます。おお、これは山形県余目のコシヒカリやーみたいに叫ぶ人はふつういません(あれササニシキでしたっけ)。まあ、市場のマジックですね。

また、コシヒカリが普及した理由には、政策サイドの思惑もあるかもしれません。というのは、コメの品種には、肥料をたくさんやればとれるタイプととれないタイプがあります。コシヒカリ以前は、どちらかというととれるタイプが作られていました。食糧足りませんでしたから。ところがコメ余りという時代になると、一転してとれないタイプが作られるようになります。コシヒカリは両者の中間らしいですが、とりたい農家ととりたくない政府で手打ちをしたような印象です。このように、市場マジックと国の政策で品種が決まってしまう様子を見てると、なんだかコシヒカリが時代にほんろうされる悲劇のヒロインに見えてきます。

悲劇はともかく、実質的に何が問題かといって、同じような作物ばかり栽培していると病気などによって全滅する恐れがあるというものがあります。先ほど、コシヒカリの作付面積が全体の3分の1だといいましたが、それ以外もコシヒカリの近しい親戚ばかりです。作付面積ランキングの2位から5位は、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、ななつぼし、だそうですが、これらとコシヒカリと合わせて作付面積の3分の2に達し、そしてみんなコシヒカリの親類縁者です。現在の品種改良におけるデザインの基本は、味がよい(コシヒカリ風の味)で(少しだけ)収量が多い(といいな)というもので、必然的にコシヒカリの周辺で交配を行っていくことになります。蛇足ですが、近頃は、日本のコメ市場を狙ってアメリカや中国でもコシヒカリを作っているから、海外で静かに熟成された新しい病原菌がひょっこり現れて日本で猛威を振るうということもあるかもしれません。

このようなリスクを下げるため、コメ品種の遺伝的多様性を高める必要性がある(つまり色んな品種をつくるべきということ)のですが、「コシヒカリより美味い米」の中で著者の佐藤洋一郎氏はひとつの提案をしています。どんなことかというと、生産者と消費者が直接対話して、どんな品種を作りたいか決め、品種改良をやってみたらどうかとのことです。これを各地域、各農家がそれぞれ行えば、遺伝的多様性も高くなるし、土地にあった品種になるし、さらに消費者が農業生産に主体的に参加するチャンスが増えるでしょう。自分が食べるものにもっと興味を持ってほしいと常々思ってるんですが、一挙に品種改良にまで踏み込んでもらおうというのは、すばらしい提案だと思います。

もちろん、品種改良をそれぞれがするっていうのは、簡単なことではないですが、不可能でもありません。だって、昔はやってたんだから。それと、新しい品種を作ってしまうとそれに合わせた作り方というのも考え出さなきゃならなくなりますが、私としては、ここポイント高いです。明治以来、品種というのはお上(かみ)から授けられるものでした。そうすると、その作り方も基本的にはお仕着せになります。やれこの時期に植えなさい、とか、ほれこの肥料をやりなさいとかね。ようするにノウハウもらってライセンス契約しているフランチャイズ加盟店みたいなもんです。ちょっと傲慢かましますけど、そんなところから、新しいものは生まれません。世界に評価される日本の諸芸を作り出してきたのは、本当の意味での民間人です(そして、どちらかというと従順さの欠ける人かと思う。偏見かしら)。まったく、官主導のクールジャパンなんでありえないぞ。と声に出して叫びたいです。

さて、最後に話がそれたものの、だいたい書くべきことは書きました。が、それたついでにもう少しだけお付き合い下さい。先ほど、コメ品種の遺伝的多様性を高めることでリスクを下げることが必要みたいに言いました。だけど、本音としては、必要だから大事にするんじゃなく、大事だから必要と思ってもらいたいのです。品種がたくさんある方が面白いと思ってほしいのです。コレクター的観点じゃなくて、八百万(やおよろず)的な観点でね。さらにいうと、品種の多様性なんてちっさい話だけじゃなくて、もっと広い意味での多様性も愛してほしい。コメ品種の画一化は水田景観全体の画一化につながってます。田んぼがコメだけをつくるところではなくて、カエルやトンボのすみかだったり、水どりの休憩場所だったりするのだと考えてほしい。だから、そういう場所にぴったりの品種なんてのもありじゃないかと今妄想しているところです。

追伸: 主要農作物種子法がなくなっても、上で述べたような問題はよくならないでしょう。政府のいう民間は個々の農家や消費者ではなくて、グローバル企業ですから。もっと悪化すること請け合いです。

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2017年03月28日

種子法やめるってさ(前篇)

主要農作物種子法が廃止されます。他に衆目を集める話題がいっぱいあるので、ひっそりと廃止されます。農業関係の仕事をしていなければ、あるいはしていても、なじみもないし、興味も薄い法律でしょう。それってばいったい何なの?についてはおいおい話すとして、まず、廃止をするという「法律案」の内容について、衆議院のホームページをみたら思わず吹き出しました。

じゃーん。
最近における農業をめぐる状況の変化に鑑み、主要農作物種子法を廃止する必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。


扱いが雑(ザツ)ですよね。近頃こういうの多いので、とくに驚きはないんでけども。こんなの誰も気にしないから適当でいいんっじゃねムードがあふれていますね。というわけで、今回と次回は、主要農産物種子法とはなんなのか、そして粛々と廃止されるであろうこの法案に関連して思うところを淡々と書こうと思います。

まず、主要農産物種子法について簡単に説明しておくと、主要農産物すなわちコメ、麦、大豆のタネがちゃんと生産されるように都道府県が責任をもちなさいという法律です。ちゃんと発芽するってのは重要ですが、それだけじゃあありません。タネというものは、クローンじゃないから、厳密には一個一個違います。それでもコシヒカリはコシヒカリであってほしいし、エンレイ(大豆の品種)はエンレイであってほしいとたいがいの人が思っています。その要求にこたえるには、コシヒカリならコシヒカリの性質、エンレイならエンレイの性質を保つため、他の品種と混ざらないように(交雑しないように)タネを生産する必要があるわけです。その辺りをちゃんと監督しなさいよってのが、この法律の趣旨です。さらに、この法律は、各都道府県が奨励品種を決める制度の根拠になっています。法律じたいには「奨励品種」という言葉はでてきませんが、主要農産物種子制度運用基本要綱(農水省通達)に奨励品種を定めるように指示されています。各都道府県ごとにその地にあった品種を定めてそれを農家に作ってもらうようにというありがたい仰せです。奨励品種を作るとJAがちょっとしたひいきをしてくれるし、そもそもコメ・麦・大豆を収穫したあと必要になる乾燥とか調整とかのための設備がない場合、小ロットで奇抜な品種を生産しても困ってしまうので、ふつうは黙って奨励品種をつくります。売るのも大変ですからね。

次に、なぜ廃止するのかについてみていきましょう。さきほどの衆議院ホームページでは、さっぱり訳がわかりませんので、他の資料として、「主要農作物種子法を廃止する法律案の概要」という半ペらをみますと、ようするに、

種子の品質はもう安定しているから、公共機関が管理しなくていいじゃん。むしろ、民間企業が参入する妨げになるし。


とのことです。法律があったればこそ、品質が安定してるんじゃないの?なんて一般人が考えそうなことは考えないところがさすがです。クールジャパンです。そんでもって、我が国で一等クールに違いない現政権のもとで設立された規制改革推進会議の議事録(第2回規制改革推進会議 農業ワーキング・グループ合同会議事録合)に本件に関する議論が見つかります。この議事録によれば、「県の決める奨励品種が、国と県が開発したものに限られていて、民間の参入を妨げているのが、制度的な課題じゃないかと思う」と出席者が言っています。そう思っちゃったんだからしょうがないです。先ほども言ったように法律自体には奨励品種については何も書いてないし、民間の参入を妨げるような条文はひとつもありません。奨励品種については、農水省の通達だけですから、事務レベルでなんとでもできることです。なんてことをいっても、近頃の政治家はそういう議論も嫌いですよね。まあ仕方がありません。

一方、法律廃止について心配されている生真面目な方々は、種子の品質の低下もさることながら、これが廃止になると、世界に4つか5つしかない種子生産大手に牛耳られてしまうんじゃないかとハラハラされているかもしれません。それも遺伝子組み換え作物がばんばん入ってきて自由に食べ物を選べなくなるんじゃないかと。そうかもですね。大方そうなります。仕方がありません。特に業界トップの会社は、秘密主義ですし、すばらしく信用できない会社です。ひかえめに言って。種子の生産をするにあたって、都道府県に管理されるなんてまっぴらごめんだとこの会社ならそういうでしょう。ちなみに、コメや麦で認可されている遺伝子組み換え品種はありません。該当するのは大豆だけ。現在15品種が認可されそのうち8品種はこの会社です。あっそうかー、その会社のために法律廃止するのかーあーぜんぜん気が付かなかったー。

そういえば、ボツになったTPPも、農業関係の内容をみると、遺伝子組み換え食品を加盟国に受け入れさせることを重点においてました。遺伝子組み換え作物の是非については色々意見があるだろうと思いますが、私は嫌いです。嫌いなもんは嫌いです。

失礼。私の好き嫌いはどうでもよいことです。なんのかんの言っても、この法律は来年に廃止されます。そういうわけで、打ちひしがれているのかといえばそうではありません。実をいうと、規制改革推進会議とはぜんぜん違う理由ですが、私もこの法律に問題があると思っていたからです。何が問題なのか。それについて書き始めるとまた長くなりそうなので、次回、後篇にて申し上げたいと思います。


おわび:「3年後に廃止されます」と書きましたが、来年でした。本文は修正しました。申し訳ありませんでした。
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2017年03月09日

エンゲル係数が高いのはイヤですか

親譲りのアマノジャクで子供のときから損ばかりしている。北といわれれば南といい、西といわれれば東という。そんな性格は嫌われるので直しましょう。と思いつつなかなか治らない。そんなわけで、少し前に、こんな記事がありまして。「物価上昇に収入追いつかず エンゲル係数“異常上昇”の仰天(日刊ゲンダイDigital)」。記事の内容をざっくりいうと、天候不良で国内産野菜が高騰したのと円安のせいで輸入食品が高くなり、エンゲル係数が大きくなったと。また他の記事、「さらに貧困化する日本人。「エンゲル係数急騰」本当の理由=内閣官房参与 藤井聡」でも、消費増税により収入が実質的に減少したのでモノを買わなくなったが、食品は買わないわけにいかないからエンゲル係数が高くなったと述べています。「どうしてそうなったか」の部分は違うもののどちらもエンゲル係数が高まりつつあることを指摘しています。エンゲル係数というのは、家で使うお金のうち食べ物に使う分の割合で、これが高いと貧乏なのだと中学校で習いました。でもね。エンゲル係数が高いから貧乏かといえば、そうかもしれないぐらいには思うのですが、その反対の「低ければ豊か」となると、もうぜんぜん納得いきません。

話がとびますが、アメリカでは、肥満の割合が人口の36%におよびます。収入の低い層で特に肥満の割合が高いそうです。その理由は、安くてカロリーの高い食べ物、つまり炭水化物中心の食事。こうした食品は、ビタミンやミネラルなどの栄養素があまり含まれません。このため、肥満なのに栄養不足という大変ゆうりょすべき状態です。アメリカのエンゲル係数は20%を切る値です。もちろん、食生活がぜんぜん違いますから、単純な比較は意味がないけど、日本のエンゲル係数がそれぐらいまでぐぐぐっと下がったとき、それが豊かになった証だといわれたら、はなはだ疑問です。

カロリーは足りているのに栄養失調というのは、日本でも実は増えています。肉を好まなくなった高齢の方に特に多いようですが、若い世代でも隠れ栄養失調が増えています。主な原因は、アメリカと同じように、炭水化物ばかり食べ必要な栄養をとっていないこと。そういえば、自分もそうめんばっかり食べてなたあ、昔。コンビニおにぎり、菓子パン、カップラーメン。安くて手っ取り早いから、一人暮らしや忙しい人はそれですませてしまいがちです。その上、支出を抑えたいとなれば、から揚げも食べたいなと思っても我慢してしまう。これからの日本を背負って立つ若いものが云々と説教のひとつもぶちたくなりますね。つまり、栄養のない安いものを食べて食費を下げ、それ以外の消費を増やすのが豊かなのかねと。

結局のところ、エンゲル係数は食べ物の質と価格の関係には無頓着です。安くて栄養が少ないとさっき言いましたが、高いから栄養が多いということもありません。たとえば、玄米を精米にするには、コストがかかり値段があがります。でもヌカをとるってことは、ビタミンB群を取り去ることなので、栄養価の面だけでいえば劣化したことになります。

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こんな装置があればよいのですが

体を動かすためにちゃんと役立つ。これが食べ物にとって重要な「使用価値」であることを否定する人は少ないと思います。しかし、食べ物が豊富にあるこの時代、自分に必要な食べ物を見定めるには多少の知識が必要です。さらに、最近はいろいろまがい物も出回っているので、ちゃんと食べるということがけっこう難しくなりました。かたや、価格というのはとてもとてもわかりやすいです。食べ物について言えば、同じ種類で、同じ重さなら、安い方を手に取りますよね、絶対。でも、もし、「こちらは100円安くなっていますが、ビタミンB1が半分です。」と書かれていたら、ちょっと考えるでしょう?食べ物を選ぶときそれこそが必要な情報です。でもそんなことは書いてない。それじゃ選びようかないじゃないか!もっと情報を出すべきだし、それはメーカーの責任なわけです。と、なんだかブーメランが戻ってきてしまいましたので、今回はこの辺で失礼しようと思います。

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2017年02月24日

上農は草を見ずして草をとる

ひさしぶりの庄内は、相変わらず鈍色の空。鶴岡駅周辺は人もまばらで、雪交じりの強い風は、この地方らしいやり方で私を歓迎してくれました。学生時代5年ほどの時間を過ごしたこの地を訪ねたのは、人生をそろそろ振り返ろうというわけではなく、自然栽培の研究をされている粕渕辰昭先生にお会いするためなのでした。粕渕先生は、自然栽培における、中耕除草(注)の大切さを研究と実際のコメ作りで明らかにされていて、前々からお話を伺いたいと思っていました。田んぼ作業がないこの時期に押しかけていいですかとお願いすると快く承諾してくださいました。

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粕渕辰昭先生。穏やかな笑顔で迎えてくださいました。

粕渕先生は、現在、山形大学名誉教授。土壌物理学を専門に研究され、山形大学には教官として17年にわたり勤務されました。ちょっと話が変わりますが、山形大学は、いわゆるタコ足大学で、教養課程(大学一年次)は山形市小白川キャンパスで学び、二年時以降鶴岡市(農学部)や米沢市(工学部)に移動します。今思えば不思議な巡り合わせで、ちょうど私が専門課程に移るころ、先生もまた山形大学農学部に赴任されたのでした。しかも、このころ大学は全国的に改組(学科や学部のありようをいじること)が盛んで、カリキュラムも結構かちゃかちゃになっておりまして、ほんらい林学の学生だった私が、農業工学に所属されているはずの粕渕先生の講義を聞くことができたのでした。

粕渕先生は、これまで、エネルギーや物質が土の中をどのように流れるのか、あるいはそれをいかにして測定するかといった土壌物理学におけるメジャーな分野で研究をされてきた方です。それがどうして自然栽培に興味をもち、さらにはご自身で栽培をするに至ったのか。粕渕先生に話をうかがうに、10年ほど前のある出会いが運命的なものだったのだと思います。毎年日本のどこかで行われているトンボサミットが、山形大学農学部で開催されたときのことです(全国トンボ市民サミット庄内大会in鶴岡)。退官まであと2年というこのとき、粕渕先生は、請われて実行委員長を引き受けました。このトンボサミットの会場で、荒生秀紀さんその人に出会ったのでした。当時、会社員をやめ有機栽培によるコメ作りを始めていた彼は、その後、修士課程の学生として粕渕先生のもとで学ぶことになりました。この出会いが無肥料・無農薬、いわゆる自然栽培の実践へのきっかけとなり、以来9年にわたる大学農場(山形大学農学部附属フィールド科学センター高坂農場、以下農場)でのコメ作りへのスタートポイントとなったのでした。

さて、荒生さんの研究テーマについて、バリバリの土壌物理学ではなく、自然栽培を選んだのは、荒生さんが水稲栽培そのものに興味があるというだけでなく、粕渕先生にとっても是非確かめたいことがあったから。以前、片野学著「自然農法のイネつくり」を読んだときに、面白い記述をみつけます。

熊本県天草郡新和町で四月移植の早期栽培に取り組む山角和好氏は除草機押しを道楽にしている。氏は活着後二、三日おきに合計10回以上押している。収量成績は新和町の平均単収を常に上まわる好成績を残している。除草機を押すと数日後には葉色が黒くなることは古くから知られており、土壌中のチッソが無機化されていることを示している。

除草機を押すことが、実は、除草そのもの以上の効果があることを、実にさらっと書いてあります。つまり、除草機を押すことが追肥(あとから肥料をほどこすこと)をふるのと同じ効果があるというのです。これが事実かどうかを確かめるため、農場に田んぼを借りうけ、無肥料・無農薬によるコメ栽培を荒生さんとともに始めます。最初に借りた田んぼは決して条件の良いところではありませんでした。けげんな様子な周囲をよそに、8回除草機を押し、収穫のときを迎えました。十分な収量が得られることがわかると、粕渕先生にとって今まで仮説だったものが確信に変わったのでした。すなわち、除草機を押すこと自体に施肥効果がある。ではそのメカニズムはなんなのでしょう。

イネの生育期間中に8回も除草に入ったら、草なんてもうすっかりなくなってしまいます。いつもきれいなものです。それなのに効果があるというのは、土をかき混ぜることに意味があることを示しています。はて、そのココロは何か?田んぼに水をはると、土の表面に様々な微生物が繁殖します。こうした微生物のうちラン藻や光合成細菌が大気の窒素を固定することは古くから知られています。土をかき混ぜると、当然ながらこれらの微生物は土のなかにすきこまれ、更地になった土の表面にはまた新たに微生物が繁殖します。除草機を押すことが、知らず知らずのうちにこのような作用をもたらしているのではと思い至ります。ここまでくれば、あとは測定。それはもう専門家ですからお手の物。調べてみると一日あたり田んぼ1反(1000 m2)あたり100 gの窒素が固定されていることがわかりました。しかし、このような作用は太陽光が届く、土表面のごく薄い層(2 mm以内)でしかおこりません。この窒素は菌の体にとりこまれた状態で存在するので、この狭い空間で微生物が飽和してしまうと窒素も増えようがありません。この表面の土をかき混ぜることで、土表面での微生物の繁殖を促すとともに、より深いところへ窒素をすき込むことができるのです。

すごい発見だ。と思ったとき実は先人がすでに見つけているという話はよくあることです。そう考えた粕渕先生は、明治以前の農書を読みあさります。そうすると出てくる出てくる。多くの文献が田んぼを何度もかき混ぜるのがよいと伝えています。中には、「中打ち8遍、犬を餓死させる」とあり、中耕を8回するとクズ米が出ないのでイヌにやるご飯がなくなるという意味だと説明されています。つまり、単に量がとれるだけでなく、品質も高いということです。そういえば、「上農は草を見ずして草をとる」というのは、けっこう有名なセンテンスですよね。これも江戸時代の農書にある言葉なのです。私はこれまで、早め早めに仕事をした方がいいよぐらいの意味だと思っていたのですが、田んぼの土をかきまぜることの重要さを認めた今、私自身のあさはかさに打ちのめさるのでした。嗚呼。

さて、そろそろ、この有意義な会見も終わりそうなころあいになって粕渕先生がこうおっしゃいました。最近荒生さんに「だんだん農家になってきましたね。」と言われとても嬉しい気持ちになったと。研究者として大学教官として業績を重ねた方が「農家」と呼ばれてうれしくなるのを不思議に思う方も多いかもしれません。でも、農学は農業と一心同体なはずで、農業そのものにかかわり農家として認められるというのは研究者にとって行くべきところへたどり着いたというべきでしょう。現在、農学は細かく分け隔てられたそれぞれの分野で、それぞれに研究が進められています。こうした傾向は強くなるばかりで、おのずと農学が農業と隔絶していきます。まあだからと言って研究者ばかりを責めたいわけではありません。研究者は業績をあげ、研究者のコミュニティで勝ち残っていかねばなりません。ちょうど土の表面に住む微生物のように狭い世界で。しかし農業そのものはその下のより深い土のなかで立ち働いているのかもしれません。ここでもやっぱり「かきまぜる」ことが大切になってきているようです。


注: 中耕とは、作物がある状態で周囲を浅く耕起することで、土の風化を促したり草を減らしたりする効果がある。

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2017年02月12日

大きいつづらと小さいつづらどちらでも好きな方をどうぞ ―強い農業とは何か―

TPPがとりざたされはじめた前後から、農業改革の旗印として、「強い農業」という言葉がさけばれて久しいですが、この「強い」っていうのはいったいなんなのでしょう。また、この「強い農業」のために政府は「大きい農業」を求めている一方、日本の各地で「小さい農業」で利益を上げている方々が現れています。どちらがより強いのか、そもそもそんな問題設定でいいのか。日本人は、大きい方か小さい方かときかれたら小さい方と答えるのがベターとすりこまれていますが、舌切り雀のおじいさんは体がちいさいから小さい方のつづらを選んだだけだし、よくばり爺さんもいわれたとおりにちゃんと家まで帰ってから開けたら、大きいつづらにはそれなりの宝物が入っていたかもしれません。さて、あなただったら、どちらのつづらを選びますか?

まず、政府がいう「強い農業」について確認しましょう。てっとりばやく、農水省のページで「強い農業」について調べます。強い農業づくり交付金実施要綱というのをみると、まあ、さっぱりわからん。優秀な方々がわからないように書いているから、もう暗号文なみ。しょうがないから、時論公論 「TPP対策 強い農業は作れるか」(NHK online)をみると、TPPが導入されたらアメリカなどから農産物が入ってくるから、それに負けない農業という意味で「強い」ということなのだと、なんとなくわかります。

負けない強さ。よいひびきだ。あの曲がかかりますよね。簡単な言葉だけど、頭の中のいろんなところを刺激してイメージをふくまらせます。でも、この負けないっていうのが、「価格競争で負けない」っていう意味だとわかると、いっきにしょぼーんとなる。ようするに安いものが入ってくるから、もっと安いものを提供すればいいじゃんってことになるわけですね。

そして、その具体策が、大規模化とそれを進めるための融資。金を貸してやるから大きくやれということです。大規模化でコストを小さくして、安い農産物を作る。この一点において明快です。まあ、大規模化による低コスト化については経団連あたりがずっと前から言ってるし、元農水官僚がそのすばらしさについて何冊も本をかいていたり。外圧がかかってきて、これ幸いと、一気に加速したれというのが本当のところでしょう。農産物が安くなって食費が下がれば、労働者の賃金を下げることができ、最終的に製品コストが下がると信じています。じゃあ誰が買うんだよそれ?という疑問はわかないんですね。

ここまで国あるいは政府側のいう「強い農業」についてみてきました。それは大きくて強い農業なのでした。これに対するカウンターなのかはたまたそんな気はないのか、「小さいけど強い農業」というのがもりあがってきています。まさにそのまんまのタイトルなのが、久松達央著「小さくて強い農業をつくる」。また、「強い」とはうたってないけど、西田栄喜著「小さい農業で稼ぐコツ」もとっても人気が高いですね。このお二方をふくめて、買う側のニーズを拾い上げつつ、自分の目指す道を歩みつつ、しなやかに、そしてややニッチに経営を成立させている方々が日本中におられます。こういう方々は、一見突飛なことをしてるみたいですが、得意分野を伸ばしたり、無駄な設備投資をやめたり、少量多品目のメリットを生かしたり、正しい企業経営を実践しているというのが私の感想です。

大きい農業と小さい農業。どっちが強いか。舞の海が曙を相手に金星をあげたら拍手喝采な日本人のひとりとしては(曙が日本出身じゃないというのはここでは問題じゃないぞ)、小さい農業を応援しちゃいたいところですが。小さい農業というのは、自己完結しているから成功しても失敗しても自分の責任範囲内。いろいろチャレンジもできるし、融通もききます。はっきり言ってやりがいがありますよね。一方、耕作放棄地や雇用の受け皿として機能させるのは簡単ではありません。それに個人の能力に高度に依存していています。片や、大きい農業は、大型の機械や施設を利用してスケールメリットを生かすことでコスト減を狙うことができ、放棄地を吸収したり雇用を提供したりできます(とはいえ、大規模化に伴って零細農家をなくして、その何分の一かの人数を雇い入れるだけなんですが)。しかし、大きくなるといろいろ難しいことがあります。大きくなるためには少なからず人を雇い入れることになります。そもそも人を使うというのは、簡単なことではありません。雇う側にそれなりの訓練が必要です(雇われる側ではなく)。特に自分が人に雇われたことのない場合、従業員の心情を理解するのは難しいことです(ここんとこテストにでるよ!)。また、現在、農業にいろんな能力や経験を持った人間が流入してきています。これを小さなものさしで計ると宝のもちぐされになり、各種才能をジューサーにかけてミルクセーキみたいにして使っています。従業員の方もひかえめな人が多いから、だまってくさってやめてしまいます(それで相手がわかってくれるなんて思うのは甘い)。結局、労務やら評価やら経理やら普通の企業がやってることをちゃんとやらないと成立しません。うちは農家だから〜とかいってると早晩退場することを余儀なくされます。

大きい農業も小さい農業もメリットとデメリットがあり、比べるのは簡単じゃないと感じます。ただ、海外からの安い農産物と戦ってどちらが残るかといえば、小さい方かなと考えています。根拠としては、大きい農業の方は輸入農産物と正面衝突するのに、小さい農業の方は、もともとあまり値段にこだわらない層に依存しているからです。とはいえ、TPPがなくなった今、アメリカの輸出補助金が生きたまま二国間協定なんか結ばれた日にはどちらもただではすみますまいね。だから、大きかろうと小さかろうというべきことはちゃんと言えるようになる。それも企業責任というものです。まじでやばいから。

さて、ここまできてちゃぶ台を返すようですが、農業をやっている環境、まわりの産業や人口の構成、作目がそれぞれ違うので、大きい農業と小さい農業がどっちがいいと簡単に言えませんよね。それにすでに大規模なところが小規模になることはできませんし、その逆も簡単ではありません。大きい農業と小さい農業の間に中くらいの農業ややや小さい農業もあっていいはずです。そもそも問題提起がナンセンスでした。ここまで読んでいただいた方には申し訳ないです。結局のところ、今与えられているものを生かしていけるかどうかが問題じゃん?くらいのありきたりな総括しかできません。ただ、農業を上から守るんじゃなくて、それぞれの農業法人や農家が大きいなり小さいなりにそれぞれに努力することで結果として農業が守られるというのが本当かなと思います。もちろん、何らかの交通整理は必要だから、みんなで寄り集まって(国境を越えてもいい)、ひとつふたつ上のレベルでものを考え提案していく。だいたいなんで海外の農業と戦わなきゃいけないんですか?そんなセッティング必要なんですか?そこまで考えてより大きな意味での「強い」農業をめざしていけたらいいと思うんですが、どうですかね?それこそ地球レベルで。
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2016年04月01日

利子24900%

みなさんこんにちは。今週は、種まきウィーク。今年の播種第一回目と二回目を実施しました。私たちのところでは、苗箱で9000枚ほどを5回にわけてまきます。これだけの量になると、やっぱり機械でまきます。播種の様子は写真の通りです。播種する機械の片方の端に、前もって土をいれた苗箱を流すと、水がかけられ、種がまかれ、土がかけられ、もう一方の端でそれを手にもってパレットの上に積んでいくのです。慣れないと結構腰に負担がかかる作業です。さらに数日後芽の出た苗箱を育苗用のハウスに並べるのですが、これがまたキッツイ。泣き言のひとつもいいたくなりますが、今日はなんといってもエイプリルフール。もっと景気のいい話をしましょうか。

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左側から苗箱を流して、右側でピックアップ

イネのマット苗の場合、だいたい、箱あたり120 g くらいの種をまきます。田んぼ10 aあたり20枚使うとすると、種の量は2400 g つまり2.4 kg です。それが秋になって収穫するとき、たとえば10俵とれたとすると、600 kgなので、割り算するとななななんと250倍。元本を差し引いて24900%が返ってくるのです。1万円を半年預けたら、250万円になるようなものです。ネットを見ているときに横にでてくる怪しい広告でも、そんな大風呂敷は広げないです。でもそれって米でしかないよね?っていう貴方。確かにそうですね。でもそもそもお金なんてものは、みんなが、「この紙切れは価値がある」と思うことで成り立っているだけのものですよ。まさに幻想。お米は、栄養があります。ご飯一合(米150 g)あたり約500 kcalほどあります。成人が一日当たり必要とするカロリーは2000 kcalぐらいですから、四合食べたらそれでOKという実際的な価値があります。金(ゴールドね)なんか毒にもならないし、ダイアモンドなんてただの炭素ですよ。米より価値のあるもんなんてそんなにないですよ。ではまた来週!

と明るく終わりたいところですが、ナニブンえいぷりるふーるですから、この話もちろんインチキです。米の量についてはそんなにウソはいってないんですが、カロリーベースで考えるとどうでしょう。水稲栽培では、耕起、代かき、田植え、収穫には大きな農業機械を使います。これは軽油とかガソリンとか化石燃料をばんばん使います。使った燃料の量なら、各農家でだいたい把握できますが、さらに田んぼにまく肥料。これはほとんどが海外からやってきます。製造と輸送それぞれにエネルギーを使います。その他もろもろの作業に使う電気。使っている機械だって製造のためのエネルギーが必要だし、圃場整備にかかったエネルギー。水利施設の建設・維持のためエネルギー。エネルギーエネルギーエネルギー。もう農業が一次産業だなんて冗談ですよね。

水稲でどれくらいのエネルギーを使っているか?というのは結構むずかしい問題でして、いろんな試算がありますが、報告者によってかなりばらつきがあります。が、10 aあたりの投下エネルギー量はだいたい100万kcal以上だとされています。10 aあたり10俵とれたとすると600 kg / 150 g × 500 kcalとして、200万kcal。100万のやっとこ倍。さらに厳しい資産だと500万kcalぐらい使っているといっているのでそうすると、2/5倍。つまり投入したエネルギーより得られるエネルギーの方が少ない。

化石燃料なしでコメ作りをしていた時代は、人間や牛、馬の体力だけが投入エネルギーでした。それが再生産されていたわけだから、まちがいなくエネルギー収支は黒字だったはずです。それが赤字になっているとしたら一次産業としては明らかに退歩です。エネルギー収支が赤字になってしまうのは、農業が工業化したからにちがいないわけですが、今でも、機械化大規模化が農業の生きる道だという方がたくさんおられます。私にはさっぱり理解できないんですが、そうなんでしょうかね。まあそれはさておき、むしろ工業界では、こういった考えはずっと進んでいて、ISO14000シリーズでは、製品をつくるのにどれだけの環境負荷をかけているのか見積もるためのライフサイクルアセスメントというものが規定されています。農業界では、「うんISO14000を取得せねば」みたいな話はあんまり聞きませんし、ライフサイクルアセスメントなんて言葉もでてきません。なんとなーく、農業は環境を守る仕事みたいな雰囲気があったりしますけどそうとは限りません。何をもって環境を守るかというのは難しいですが、少なくとも投入エネルギーみたいにわかりやすい指標についてはちゃんと調べ、改善していくプロセスが必要です。そしてそうした努力がセールスポイントになる。というのは理想的なんじゃないかと思うわけですよ。はい。

やらなきゃいけないこといっぱいあるなあ。
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2016年03月18日

米農家は種もみを買っているという事実をどう考えるか

TPPやら遺伝子組み換えやら、まさに「感じねえかよ、このイヤな感じを」という感じです。テレビをたまたまみたら(普段はみないけど)、街角インタビューでTPPどう思いますかって聞かれてた方が、「安いものが入ってくるらしいので期待しています。」というようなことをおっしゃっていましたが、そんなわけないじゃんって思いました。どこかの知らない人が私を幸せにしてくれるなんて、いまどき、詐欺に決まってるじゃないですか。


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今年の種もみさん


さて、米農家の大部分は(私のところも含めて)種もみを買っているよという話をしました(前回のブログで)。もっというと、米はたいがい固定種なので、種もみを自分で用意しようとすればできるのに、やっぱり種もみを買っていると。手抜き?まあ、アウトソーシングだと思えばそんなものともいえます。ですが、もっと表向き(?)な理由が二つあります。それは、品種の管理とそれに関わる規制です。

まず、品種の管理。言っておきますが、米は生き物です。生き物は、進化し続けるものです。変化といった方がわかりやすいですかね。でも、商品としてはあんまり変化されると困ります。今日買ってきたボンカレーがなんだかハヤシっぽいってことになったら困るのです。米は基本的に固定種です。米は固定種なんだから固定されてるんでしょう?ということはありません。よそから違う遺伝子が花粉にのってやってきたら固定種とか関係ないです。米は基本的に自殖(自分の花粉と自分の胚珠から種を作ること)するので、よそから花粉がやってきてまざっちゃうということがあんまりありませんが、全くないというわけではなくて、数パーセント以下の確率でまざっちゃうらしいのです。そうやって混ざって一部にちょっと変化が起きて・・・というのが何代か続くとだんだんその品種の特徴が失われていくということが起こります。なので、混ざらないようにして種もみを生産するということが必要になってきます。実際どういうことをやっているかを説明するのは面倒だから、「原種」「原々種」とかでググってください。とりあえず、そういうなんだか厳密そうなことをやって種もみが用意されることで、コシヒカリはコシヒカリ、ひとめぼれはひとめぼれということが保証されているわけです。


次に品種の管理にまつわる規制。たとえば、平成28年産石川県産コシヒカリと書かれたパッケージで米を売りたいとしましょう。当然、今年に、石川県でコメを作るわけですが、できたぞ、さあ袋に詰めて売ろうじゃないかというわけにいきません。産年・産地・品種の証明を各都道府県から受けなきゃいけません。その証明をもらうには、米穀検査というものを受けねばなりません。検査自体は、「ああ、ちゃんと米だね」って言われればいいのですが、検査の対象になるのは、「なんだか厳密そうなことをやって」用意された種もみから育てたものだけです。自分でとった種もみから育てても検査さえしてもらえません。そうなると当然、たとえ、今年に、石川県で、作ったコシヒカリなのに、平成28年産石川県産コシヒカリと言って売ることができません。そういう決まりがあるから、コシヒカリと書いてあれば中身やちゃんとコシヒカリということが保証されるのです。純粋なコシヒカリの種もみからできたコシヒカリだけがコシヒカリを名乗ってよいのです。


というわけで、米農家は種もみを買うのが正義だ!と主張したいわけではありません。といってこんな仕組みは間違っているとも思っていません。商品を作るんだから品質管理は大事です。産年・産地・品種を書いちゃダメとかちょっとどうなのよとも思いますが、それだけでこんなの全部やめちまえとは言いません。生活保護をズルして受け取る人がいるから生活保護制度をやめようとかいう人に共感しないのと同じです(違うかな)。でも種もみは買うのが当たり前っていうのは、なにか、こう、まずいような気がするのは、気のせいですかねえ。

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2016年03月12日

「固定種」や「F1」についての大きなお世話な解説

みなさんこんにちは。今週は種もみの準備に入りました。と前ふりしつつ、いきなり話は斜めへ行きますが、最近は、遺伝子組み換えやTPPの件もあって「タネ」への関心が高まってますね。野菜を作るなら自家採種しちゃうなんて当たり前の世の中で「固定種」とか「F1」って何?なんて人に聞けない雰囲気ですよね。そんなわけで、今回は、その辺まだよくわからないというごくわずかな方々のためにちょっとした解説をしようと思う次第です。


まず、「固定種」と「F1」について。「岩波生物学辞典第4版」を見ますと、「固定種」というコトバはでてきませんが、「固定」ならあります。「生物の系統やメンデル集団で、一つの遺伝子座の特定の対立遺伝子の割合が100%になること。」とあります。なんのこっちゃと思われたあなたのために血液型でたとえてみましょう。日本には4種類の血液型があって割と均等に分布していますが、国によってはかなり偏りがあります。たとえば南米のグアテマラでは、95%O型だそうです。で、例えば、O型が100%の国があったとしましょう。右をみても左をみてもO型(恐ろしい・・・)。当然すべてのカップルはO型同士であり、その子供もまたO型になります。この状態が固定です。血液型という性質について遺伝的に固定されちゃっている状態です。それ以外の遺伝子はばらばらでもかまいません。血液型については遺伝子が固定されているのです。人間の場合、血液型は輸血のときに問題になるだけで、それぞれの個人の性質を決めるそれほど重要な要素ではないでしょうし、そもそも、おかしな思想でもないかぎりどんな遺伝子についてもそれが「固定」されていることに興味はありません。それとはちがって、野菜などの場合には、色とか形とか味とか、価値につながる性質が重要なので、それを決める遺伝子が固定されていて欲しいわけです。この状態になっているのが固定種なのです。


この国にあるときB型の人がどこからか流れ着いたとします。この人はB100%の国からやってきた生粋のB型です(これまた恐ろしい)。そしてその国の誰かと結ばれました。そうするとその子供はB型になります。ただし、この子供はB型の遺伝子とO型の遺伝子を受け継いでいます。この子は、B型特有の聡明さとO型特有のほがらかな性格で誰にも好かれたりしています(もちろんフィクションです)。この子がF1です。さて、この子が自分の伴侶を探していたら、なんとやっぱりB型国の出身者を片親にもつ素晴らしいF1に出会ってしまい、これが運命というものかといって結ばれたとします。しかしながら、その子供のうち親と同じような性格のものは二人に一人しかうまれてきませんでした。めでたしめでたし?さて、たとえ話でかえってわかりにくいという批判を無視しつつ、シンプルに言い直すと、「遺伝的にかなり違った品種同士を交配させたらできた何かよい特性をもったもの」がF1ということになります。


血液型の説明では、それぞれの親の性質のいいとこどりみたいな表現をしましたが、雑種強勢といって親の性質をさらによくした性質をF1がもっていたりするらしいです。そんなわけで、近年では、野菜のタネを買いに行くと、大方はF1とか交配種とパッケージに書いてあります。そのF1のタネをまいて野菜を作ると(ちゃんとやれば)予定通りの野菜になりますが、そこから種をとって次の年にまいても同じものはできません。遺伝的にばらばらになるからです。F1の問題点といわれるのは、まさにこの点であって、農家は自分で作った野菜から種をとっても次の年に同じ野菜がとれない、毎年毎年、タネのメーカーから買わなくちゃいけないということになります。


さて、ここまでで固定種やF1についてはよくわかりました。でも、米作っているくせに、なんだか野菜、野菜といっているけど米はどうなのよと思われたあなたのために、米の話をしましょう。実をいうと、米づくりの現場では、あんまりF1が使われていません。とはいえ、米ではF1が無縁というわけでもありません。私たちが食べている米、たとえばコシヒカリとかひとめぼれといった品種は昔からあったわけではなく、何かの品種を交配させてつくったものです。コシヒカリでいうと農林22号と農林1号という品種を交配しています。なので最初に2つの品種を交配させたときには当然F1の子供ができます。米の品種改良の場合、このF1はゴールではなく、スタート地点です。ここから何代も選抜とか戻し交配というのをやって、特定の遺伝子を固定させていきます。戻し交配をO型国の例で説明すると、B型異邦人の孫の中でB型の性質をもっている子供を選び、またB型異邦人との間に子供を作るということを繰り返すことになります。もう人のたとえ話にするのは限界になりつつありますが、そういうことをし続けたら、血液型についてはO型の遺伝子が追い出されて、生粋のB型(BB型)になる。つまり固定されるわけです。ここまで来たらわざわざB型異邦人を連れてこなくてもその集団から生まれる子供はいつもB型です。血液型以外の性質についてはO型国らしいものもあったりしますが、血液型はB型です。とういうわけで、コシヒカリを育ててとったタネ(種もみ)を使って次の年にイネを育ててもちゃんとコシヒカリができるのです。コシヒカリに必要な性質を決める遺伝子は固定されているのです。


なるほどーじゃあコメ農家は毎年自分のところでとったタネを使って米を作ってるんだね。素晴らしいね。と思った方。すみません。コメ農家も種もみ買っているのです。これについての言い訳を今から考えるので続きはまたこの次に。ではでは。

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2016年03月04日

春の準備作業開始です

みなさんこんにちは。3月になってしまいましたね。石川では、冬も終わりかけになってから雪が結構ふったものの、確実に春に向かっている今日この頃です。水稲農家はこのあたりから5月の田植えに向けていろいろ忙しく、気ぜわしくなってきます。時々、田植えと稲刈り以外にやることないよね?みたいなことを言われたりしますが、苗を育てるための設備の準備や種まき、育苗、田んぼの水回りのチェックと荒起こし、代かきなど、田植え前の仕事もひとつひとつどれも重要です。

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写真 芽を出させるための温室を作っているところ


ところで、イネに限らず農作物の栽培では、苗半作とか苗七分作といって苗づくりがもっとも重要といわれています(今、ひとつひとつどれも重要といったばっかりですが)。実際、苗が良くないと、後でどんなにがんばってもリカバリ不能という場合もあります。はじめ良ければすべてよしという言葉がありますが、はじめ悪けりゃ後大変という方が真理じゃないでしょうか(まあ、はじめからすべてうまくいったまま終わる人生なんて面白くないですよねー。はい負け惜しみです)。話がそれましたね。私どもの田んぼでは、自然栽培用も含めすべて田植え機による機械植えです。機械にマット苗(箱苗)をセットして植えます。この箱は、30cm×60cmの大きさで、何千粒もの種もみがまかれるわけですが、箱の中でこの苗はいいから使おうとかこれはダメとか選ぶことはできません。人間と違って機械は手加減なしで植えるのでマット苗全体の出来不出来がちゃんと植わるかどうかに直結するわけです。苗箱の中で苗が少ないところと多いところがあったりすると、そのまま田んぼで苗が植わっているところと植わっていないところができてしまいます。自然栽培用の床土には、山土にボカシを混ぜたものを使っているのですが、これがいろいろやっかいだったりもします。たとえば、ボカシに使っているモミガラはふつうの床土からみるとやや粗大なのでヘラで平らにしようとしてもモゲモゲっとして平らになってくれません。それにモミガラが邪魔して水を吸わないと水たまりができて、上からまいた種もみが偏ってしまったりします。そもそもボカシ自体が均一に発酵していないと発芽やら生育がばらついたりしてしまいます。そんなことにならないように願いたいですが、ちゃんと苗になるまではらはらです。


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写真 こんな風に水がひかないでたまっちゃうと困ります。

さて、説明なしでボカシって言葉を使ってきましたが、巷ではこの言葉普通に使うんでしょうか?少なくとも自分の学生時代(約四半世紀前)、自分は知りませんでした。今となっては、「うちのボカシはさあー」みたいなことを言うとちょっとかっこよくない?とか思ったりするのですが、どうなんでしょうね。今回使用したぼかしは、去年の11月頃にモミガラと米ぬか、水をまぜ2か月くらい発酵させたものですが、菌が分解に使う窒素分と分解する炭水化物があればなんでもボカシになります。家庭で作るコンポストもボカシですね。ボカシって変な言葉だなと最初のころ思いましたが、実際自分で作ってみると、なるほど、最初は明るい色でしっかりした形の材料(うちではモミガラ)がだんだん「ぼけて」きて土のようになってきます。


このボカシを作るのは様々な菌類です。ボカシを作るとき、特別よそから菌を投入しているわけではないので(もちろん投入してもいいです)、そのへんの奴らが勝手にやってきて勝手に働いてくれます。まさに小人さん。面白いなと思うのは、発酵の初期からだんだん働く菌類が変わっていくということです。最初のころは、植物繊維を分解して糖を作る連中。次にその糖を使ってタンパク質を分解する連中。その途中でやたら温度を上げたがる連中とか水が多すぎたときにがぜんと頑張りだす連中とか(こやつらにはがんばってほしくない)。そういうことは匂いとかでなんとなくわかります。こちらとしてはボカシの温度をみながらそやつらをなだめたり(切りかえし)すかしたり(水追加)してボカシの完成へもっていくのです。

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写真 ボカシ作成中(去年の11月下旬ごろ)。まだおいしそうな匂いがします。


こういうことをしているといつも思うことがあります。「もやしもん」の主人公みたいに菌がみえたら面白いだろうなあと。なんとなくじゃなくもっと親しくしたい。彼らは目には見えなくても確実に働いています。僕らは知識として、そういう世界があることを知っているのでそういう見方をしますが、昔の人たちにとってはまさに魔法のようなできごとだったでしょう。ところが、近年では、いろんな分析手法が発達してこの神秘の世界にかなり肉薄できるようになっているのです(お金がかかりますが)。今後は、ボカシに限らず、自然栽培の土がどのように変化したり維持されたりしているのか菌類の世界からわかってきたらいろいろ面白いに違いありません。農業の現場ではこの見えない世界の住人の働きは非常に重要です。コンピュータに例えると、OSの一部といってもいいんじゃないでしょうか?農業者と菌とのかかわりがもっと緊密になれば明日の農業が拓けてくると思います。ずいぶん前になりますが、上野の国立科学博物館で「もやしもん展」をやっていました。そこで来場者に子供の多かったこと。もやしもんの「醸すぞー」キャラクターが人気だったからでしょうけども、菌類への興味をもつきっかけになればいいなと思ったものです。私たちは、石油文明の真っただ中に生まれ、そこにどっぷりつかっているわけですが、この「火を使わない」文化を大事にしていきたい、大事にしていってほしいと思います。


さてさて、今年使用する苗箱は2月中にすべての土を詰め終わりました。9千枚あまりの苗箱のうち、300枚ほどが自然栽培用の苗箱です。ボカシの中に住んでいる菌類とともに出動待ちです。


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2016年02月26日

ブログリニューアルいたしました

みなさん、こんにちは。有限会社ばんばで自然栽培を担当している上野と申します。このたび、今まであったスタッフブログを「自然栽培ブログ」としてちょっとだけリニューアルいたしました。


もう2月も終わり来月からカレンダー上は春ですね。冬の間にいろんなことをやっておこうと思いましたが、なかなか思うようにはいかなかったなあ。うーん。でも3月からは気持ちを切り替えて秋の収穫まで駆け抜けたいと思います。さらに今年は、作業の合間を縫ってブログ更新も頑張りたいと宣言させていただくしだいです。


さて、自然栽培ブログということで、いろいろ考えていること起こったことなどについての話題を取り上げようと思っているのですが、まず、自然栽培ってなんなの?という方もいらっしゃると思うので、自分が考えていることについて今回は書こうと思います。とはいえ、私の個人的見解盛りだくさんなので、それは違うぞと思う方はご意見くだされば幸いです。


自然栽培。うむ。「自然」というのは人手を加えないそのままという意味ですし、「栽培」というのは、植物を植えたり育てたりすることです。ですから「自然栽培」というと、素直にとれば、手を下さずに植物を植えたり育てたりするということになります。フォース的な何かが必要です。私はフォースを持っていない代わりに、これくらいの矛盾はまるごと飲み込めるくらいの性格なのですが、自然栽培とはどういうものなのか?とお客様に問われれば「片手の拍手を聞くがごとし」などと言って煙に巻くわけにもまいりません。一度、基本に立ち返り自らを正すよい機会です。一見矛盾する事柄を丹念に見てみると何か素敵なものが見つかったりするものです。


基本に立ち返るということで、先人の言葉に学んで自然栽培のエッセンスを探してみようと思います。自然栽培あるいは自然農という言葉で資料にあたると、福岡正信氏、岡田茂吉氏、川口由一氏、木村秋則氏のお名前が挙がってきます。


最初のアプローチとして、先人の著作を「べからず集」として眺めてみます。表現に違いはありますが、「不耕起」「無肥料」「無農薬」「無除草」といった「不」とか「無」が含まれる考えがキーワードとして現れてくるからです。これらのキーワードを軸に福岡氏らの方法論を分類してみると以下のような表になるかと思います(×はしない。○はしてもいい)。


 耕起肥料農薬除草
福岡氏××××
岡田氏×
川口氏×××
木村氏××

もし今後、JAS自然栽培規格みたいなものができたら、表の行のうちどれかが採用されるかもしれませんね。これを「しない」場合は○○流の自然栽培とみとめる法律というわけです。でもね。表まで作っておいて、ここまでお付き合いいただいた方には申し訳ないですが、このアプローチは間違いでした。これを法律として受け入れているうちは、「自然」と「栽培」の間のわだかまりを私は払しょくできません。「これをしないから自然栽培でいいでしょう?」とか「自分にとってはこれをするのは違うように思うのだけど、やっても大丈夫らしい」というような後ろ向きの姿勢ではないように思うのです。


ついこのあいだ、このような私の心にキックをいれてくれるイベントがありました。去る2月の23日と24日に自然栽培を実践されている方、興味のある方が広い地域から集まりました。そこでは日ごろからの疑問や思いをそれぞれが語りあいました。うれしい出会いがたくさんありました。その中で感じたことは、みなさんが自分の中に「自然とはこういうもの」という感覚があるということです。そして、どなたかがおっしゃられたように、その感覚に嘘をつかないで済むのが自然栽培なんだと強く感じました。つまり、自分にとっての自然な状態にしていく農法なんじゃないかと思うわけです。だから、それぞれ個別の技術については、田んぼや畑、作物との対話をしながら、胸に手を当てて自らに問うべしということになります。そして自然栽培とは何かと問われたときに、自分の考える自然の姿について語りつつ、どうしてこれはやり、あれはやらないのか説明するのです。「自然」の感覚は、必ずしも人それぞれでお互いに一致するものではないのかもしれません。栽培を続ける中で時間の経過とともに変化していくかもしれません。人からも影響を受けるだろうし、影響を与えることがあるでしょう。それもまた自然のプロセスです。


こう書いてしまうと、独りよがり、内輪ウケと感じられる方もおいでかもしれません。私自身の自然栽培への理解や表現力の不足があることをご容赦いただきたいと思います。当然ながら、自然栽培に携わっている生産者が、自分の思いのたけをぶつけるだけで、その米や野菜を召し上がる方々をないがしろにしようとしているわけではありません。お客様に対しても嘘をつきたくはないのです。良いものを提供したいと思っています。ですが、「私が良いと思うもの」に対して理解を得る努力あるいは「お客様が良いと思うもの」についての理解をする努力がなければ、ただの押し付けになってしまいますね。ですから、様々なチャンネルを通じて理解しあうことが必要です。それこそが最も重要な課題だと私もようやくと気づきました。周りを見渡せば、すでに多くの取組が行われています。わたくしにとっての第一歩が、このブログです。今後は、私たちの取組や出来事、考え方を書いていく予定です。また、自然栽培を実践している方の紹介やその取り組みなどにも触れられればいいなと思っています。よろしくお願いします。

posted by ばんばスタッフ at 13:26| 農業一般

2015年05月23日

チェーン除草器を田植機でひっぱるうえでのコツ

ここのところ、無農薬の田んぼでチェーン除草をやっております。世の中には人力でチェーンをひいておられる方も多いと思いますが、うちの会社では幸い田植え機(だったもの)にひかせています。6町歩ほどやってますので、人力だったらみんな逃げちゃいますね。

人力でのチェーン除草にもいろいろノウハウがあって、機械でひっぱるなんてそれはまあ遊んでいるみたいなもんですが、それなりにやりようというものがあります。3日しかやってないんでこつとかいうのもおこがましいのですが、気がついた点を記して置こうと思います。

1 まっすぐ植える!
世界まっすぐ植え選手権にでられるくらいまっすぐ植えます(自分はでれませんけど)。ちょっと時間をかけてもそのロスは後で回収できます。いそいで植えて曲がったらあとでめんどうです。

2 わだちに乗る
まっすぐ植えたわだちに乗ります。田植えをしたときと同じところを通るのです。これは田植え機とチェーン除草に使っている田植え機の条数が同じ事が前提です。そうでない場合は一回目にチェーン除草用のわだちをつくって次回から利用すればよいと思います。わだちに乗ると何がいいかというと、ほとんどオートクルーズ状態になって植えたとおりに進みます。極端にまがっているとだめですが、「ほぼまっすぐ」なら植えたなりに進みます。オートクルーズ状態になるとさらによいことがあって、水が多くて苗がよく見えなくてもちゃんと進みます。

3 ハンドルをあまり使わない
オートクルーズ状態になってればハンドルにさわる必要がありません。耕板にちょっとかたがりがあって機体がながれているときでもわだちに乗ってる限りはハンドルをうごかしません。ハンドルを切ってしまうと前輪が泥を反転させてせっかく植えた稲を倒してしまいます。それでもちょっと気になるときは立っている場所を変えて重心移動で機械を手伝ってやります。

4 次の条への目印をつける
芸術的にまっすぐ植えてしまうとターンしたあとどこを通るべきかわかりません。水がおおくて苗がよくみえないときなんかは途方にくれます。ですが、進んでいる最中は、いま通っている条からの数を数えれば次のわだちがとこだか分かります。わたしはダーツのように棒を投げ込んでターンしたときそれを目指しています。これについてはいろいろ他によい方法があると思います。

その他の注意:田んぼが深いときチェーン除草器が下がりすぎてせっかく植えた苗をぜんぶさらってしまわないように。また、植えるとき自分のチェーン除草器の幅を考えて畔ぎわの植え幅を調整します。寄せすぎて除草器が入らないことがあります。
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2015年04月15日

初草刈

今日は、今年度初めての草刈です。草刈は、草刈り機とか刈り払い機と呼ばれる機械で行います。当社では、ヒモと呼ばれるナイロンの細長いものを使っています。ヒモは、金属の刃とちがって刈り進む速度はやや遅いですが、比較的安全です。何しろこの草刈機というものは物騒な代物でそのまま武器といってもいいくらいのものです。事故も多くて、農業機械における事故の2割くらいを占めるようです。

ホームセンターに普通に売っているので農家でない方でも持っている場合がかなり多いのではないでしょうか。でも使い方とかメンテナンスの仕方はたぶんそういうお店では教えてくれないので何となく使ってしまう。単純な機械なので使うこと自体はできるんですが、なおさら危険です。
各県で安全講習をしているので受けたことがない方は是非どうぞ。それで十分かはわかりませんが、まずそこから。

とはいえ知っている範囲で注意点をいくつか。
@刃を締め付けているボルトあるいはナットは緩むときがあるから毎回確認。ちなみに普通のねじと反対方向に締まります。
A人が近くにいるときはエンジンを止める。刈っているそばを人が通る場合なんかもせめて手をとめる。
B刈っている人に死角から近寄らない。
Cいろいろ飛んでくるので顔を保護する。
Dはくろう病にならないよう連続使用に気をつける。もし新規に買うなら3軸値の低いものを選ぶ。
E機械にあった刃をつける。

などなど。ほかにあると思いますが、ヒモを使う方がいいでしょうね。何より刈り進みがゆっくりなのでカエルやら蛇やらをやっつけないで済むのが私としてうれしいです。
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2015年04月14日

自然農法・自然栽培の「自然」とは

自然農法・自然栽培の「自然」とは

自然なのに栽培?

いきなり私事なのですが、自然栽培とか自然農法とか聞くとそこはかとない違和感を感じます。そんな農業が可能なのかとかいう現実的な問題ではなくて、単に言葉の問題です。「自然」なのに「栽培」?、「自然」なのに「農法」?というのがひっかかるのです。実践されている方々は、そんなつまらぬことにこだわることに意味はないというかもしません。言葉なんてものは、コミュニケーションの当事者同士が同じものをイメージできればそれでよく、アゲアシをとるような行いをするものは去れと私も思います。しかし、こういう問題を片付けないと一歩も前に進めないような性分の人間はいるものです。「どうして分数をひっくり返して掛け算すると割り算になるの?」と考える者に「そうすればそうなるの!」といっても通じません。「自然」という言葉に過度の思い入れがあり、それが人生の根幹であったような人間にとっては、放っておけない問題なのです。これが片付かないと私の自然栽培・自然農法もまた一歩も前に進まないように思います。

「自然」という言葉との出会い

私が生まれたのは高度経済成長期の末期、肥大した工業が公害やエネルギー問題を噴出させていた時代でした。そのためなのかはわかりませんが、幼い頃から環境問題は身近で重要な事柄と認識していました。そして中学校、高校といった多感な時期には、長良川河口堰や八場ダム、諫早干拓など巨大な公共事業に憤ったりしていました。大学に入るころは自然保護という言葉がよく使われ、手つかずの森林を保護しようというような気運が高まっていました。そういうムードに流されたのか、農学部林学科を選択してしまいました。大学に入ると最初のころは教養課程といっていろんな分野の講義をとります。長い前おきでしたがやっと本題です。ある講義で教官が、「最近は自然保護なんていうけど、自然を保護するってどういう意味なのか君たちはどう考えているのか?」というわけです。何をいうか、この年寄りめ、自然保護っていうのは森林やら川やらの生き物を守ることに決まってると自分は思いました。教官はこう続けます。「自然という言葉は、私たちのまわりを取り巻くすべてのもので、人間も人間の営みも含まれている。そんなものを保護するというのはどういうことなのか?」と。正直、このとき、この問いかけにあまりぴんと来ませんでした。禅問答みたいであまり意味がないなと感じたのかもしれません。熱帯雨林やら釧路湿原やらアフリカゾウやら保護するべきものは明確で考えるまでもないと思いました。しかし、結局、この20年来ずっとこの禅問答について考えさせられていたようです。自然とは何なのかと問うことが私のライフワークになってしまっていたのです。

福岡氏の自然農法の自然

ではさっそく、自然農法・自然栽培における自然について考えてみます。自然農法の提唱者として有名な福岡正信氏の著書「わら一本の革命」を拝読すると、科学と自然の対比が強調されています。化学肥料や農薬の使用、近代的な農法(機械による耕耘など)などといった「科学的な行為」を無用なこととし「自然」に任せることが重要だと述べられています。こういう文脈ですと、科学的に有為だとされることをしないという無為を指す言葉として自然が用いられています。明らかにアフリカゾウなんかは関係しそうにありません。穿った見方をすれば、ここでいう自然は、「自ず」と「然り」、身を委ね任せるがままにしておけば正しい状態が導かれるといったことでしょうか。いきなりワンパンチ喰らいました。そういう意味の自然ですか。勝手な思い込みをする方が悪いんですが、自分が思っていた自然栽培というのは、トンボが飛んでてカエルが鳴いててそんな中で作物を育てるようなものだったのです。もちろん、農薬を使わないので結果としてこうした生き物が生きていけるのでしょうよとあなたは言うかもしれません。何が違うのか私自身でも定かでないのですが、むりやり表現すると、私にとって自然というのは、トンボであってカエルであって水の流れであってひとつひとつ認識すべき対象なのですが、福岡氏の自然は、人間(というか己れ)が存在する世界の背景という感じです。「何もしない」ことを実践することによって諸々すべて正しく機能していくと。

「何もしないこと」をどう実践するの?

できるだけ何もしない。無為自然。老荘思想に近いのでしょうか(老荘思想もよくわかってないんですけども)。ただそう分類できたとしても大して理解が深まりません。正直いって私のような俗物はたった今その高みへジャンプすることができそうにありません。「何もしない」というアプローチをどうやって実践したらいいんでしょうかと真顔で聞かざるを得ません。福岡氏の農法でも種は播きます。種を播くのは自然な行為なんでしょうか?野生動物である人間は種を播く習性があるのだと納得すればいいのでしょうか。農薬を撒く習性は本来ないんでしょうか。ただのいいがかりになってきました。いまさらですが、福岡氏は、農薬とか化学肥料とかいったものを使わないでもって自然に農業をしたらいいよと、ざっくばらんに自然という言葉を使っているだけかもしれません。自然体の自然かな。ともかく言葉をあげつらってそんなことを言うな、空気読めと言われそうです。でも私は、空気など読む気になれません。自然農法の具体的方法について福岡氏が述べているんだからその通りにやればいいという真っ当なアドバイスも今は受け付けません。自然という言葉への執着は伊達じゃないんです。そうしてどんどん深みにハマっていくようですが、結局のところ、自然農法の「自然」は、私の「自然」ではなく、そうであるなら、これまでの自然農法もまた私の自然農法ではないということになります。意味を使い分ければいいでしょうと思われるかもしれませんが、そんな簡単なものではありません。言葉のもつ力をあなどってはいけません。安易に受け入れてもいずれきっと困ったことになります。決別すべきものとは決別せねばならないのです。

思索の旅はつづく

自然農法を実践する前から路頭に迷ってしまいました。福岡氏には軽蔑されそうです。実践の中で会得したことをそんな風に頭の中だけでぐちゃぐちゃ考えても仕方ないというでしょう。しかしながら、幸か不幸かそういう風にぐちゃぐちゃ考える性分なうえにそういう訓練をうけてきてしまったようです。それに自然農法・自然栽培の「自然」にもっと積極的な意味を持たせたいという願望が自分のなかでむくむくと育っていることに事ここに至ってきづかされたようにも思います。こうして私の意味があるかどうかわからない思索の旅は続くのです。
posted by ばんばスタッフ at 14:26| 農業一般
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